その学校は継承語としての日本語教育が行われているところで、生徒たちは日本にルーツを持つ子どもたちばかりです。
日本にルーツを持つというのは、両親ともに日本人、両親のどちらかが日本人、あるいは祖父母や曾祖父母の世代に日本からアメリカに来たいわゆる日系人のことです。

継承語としての日本語学校の定義はいろいろな視点から解釈することができますが、この学校に限って言えば、将来日本に帰国する確実な予定はないけれども、親や祖父母から受け継いだ日本語を学ぶ学校だと言えます。

この日本語学校は仏教系でしたので、子どもたちの英語での会話の中に時々「obuppan」とか「ohiguan」という日本語が自然に混ざっていて、私は「obuppanって何?」などと子どもに聞いたりしました。
子どもは「先生、日本人なのに知らないの?ブッダのごはんだよ」と言いました。
ああ、「お仏飯」って漢字なのね、と思いました。

私は休みの日ともなると、漢字のフラッシュカード作りに余念がありませんでした。
そして、作ったばかりのカードを持って教室に行ったときのことです。
「アーサー、これは?」と一人の子どもを指すと、クラスの子どもたちは笑って、
「先生、発音が変だよ。Arthurだよ」と言いました。
そっか、【r】と【th】サウンドは難しいんだよね...
アーサーというのは、お父さんがアメリカ人でお母さんが日本人の子どもです。
日本語も多少話せますが、いつも大人しくてニコニコ笑っています。
私が日本式の下手な発音で名前を呼んでも、ちゃんと「ハイ!」と手を挙げて元気よく返事をしてくれるのです。
「Arthur、Arthur、どう、これで?直った?」
「無理しなくても良いよ」
「じゃあ、アーサー、これは?」と【朝】と書かれたカードを見せました。
子どもたちは「それ、Arthurの漢字だ。先生の発音のアーサーで良いんだよ、Arthur!がんばれ」
「あーさー」
「そう。よく読めたね」
その日からこのカードがArthur専用のカードになったことは、言うまでもありません。

当時私はその学校の中では唯一の大学生で、一番若い先生でした。
大学では幼児教育や語学教育とはほど遠い分野を専攻していましたが、子どもが好きだというだけで、日本人だったら誰だって日本語なんて教えられると、一番軽い気持ちで教えていた先生だと思います。
そんなこともあって、今の私の年ぐらいのベテランの先生たちの仲間にはなかなか入れてもらえませんでした。
でも逆に、若いということは子どもたちに一番近い年齢なんだと前向きにとらえようと思いました。

1980年代、その学校で使われていた教科書は、一体いつの時代の?と思うほど古い内容が扱われていました。
ですから、私はひらがなや漢字のフラッシュカードや自分で考えたお話を子どもたちの顔を思い浮かべながら、手書きで作りました。友だちにも「いつも何か作ってるんだね」と言われていました。
あのときに、自分はこういう作業をすることが嫌いな人間ではないということを実感しました。


でも、そのときはまだ、この経験が将来ちゃんとした日本語教育につながる日が来るとは思ってもいませんでした。

その日本語学校の校長先生が、「ここを保育所だと思って預けていく親がいて困る」とよくこぼしていました。親は子どもたちを軽トラックの荷台に乗せて、朝早く日本語学校の門の前で下ろします。
そして子どもたちは、門が開くまで地面に座って待っているのです。
トラックの荷台には、鎌、ザル、カゴ、剪定用の鋏などが載っています。両親は子どもを下ろすとその足で、富裕層の白人家庭の庭の手入れの仕事に出かけるのです。
アメリではその仕事のことをgardenerと言って、当時日系人の典型的な仕事だと言われていました。
彼らは、挨拶言葉程度の英語しか話せません。
どうしてアメリカに移住してきたのかと尋ねたとき、ほとんどの人が兄弟に呼び寄せられたからと言っていました。
親たちはカリフォルニアの焼け付くような太陽の下で、一日中広大な庭の手入れをするのです。
移民一世は、どこの国でも苦労するものです。

そこの日本語学校では、日系二世・三世の子どもが学んでいました。
中にはお父さんがアメリカ人だったり中国人だったりという子どももいましたが、ほとんどの子どもの親は日本から移住してきた一世でした。
ですから、子どもたちの多くは、日本語を聞いて話すことにはあまり問題がありませんでした。
子どもたちは「先生の日本語は、わたしたちの日本語と違う」とよく言ってました。
そう言えば、子どもの名字には「城」や「仲」が付く名字が多いなあと思っていたので、出身を聞いて納得しました。
皆九州や沖縄からの移民でした。
ですから、私が努めて東京方言で話しても、子どもたちには通じなかったのです。
「先生、なんばしよっとね~」と言われたときは、思わずどういう意味と聞いてしまいました。そんなとき子どもたちは、素晴らしい英語の発音で「What are you doing?のことだよ」と言いました。
「みんな英語上手なんだね」と私が言うと、「だって、アメリカの学校に行ってるんだよ」と、ちょっと得意げな顔をして言いました。

 話は1980年代に戻ります。私は大学時代をカリフォルニアで過ごしました。大学2年生から日本に帰ってくる前日まで、アルバイトのひとつとして週末日本語学校で日本語の先生をしていました。その日本語学校は毎週日曜日に公立高校の校舎を借りきって、幼稚園児から高校生までの日系アメリカ人の子どもを対象にしていました。

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 そこでアルバイトを始めたきっかけは、日本人の友だちがたまたま都合が悪くて教えに行けなくなったから、来週から代わりに行ってくれない?と頼まれたことからでした。でも、日本語なんて教えたことないしなあ...と渋っていると、大丈夫だよ、日本人なんだからと言われました。まあ、子どもは好きだったし、やってみようかな、日曜日の午前は暇だしと軽い気持ちで出かけていきました。  校長先生に連れて行かれたのは、三年生のクラスでした。そこにいたのは、全員黒い髪に黒い瞳をした子どもたちでした。私はアメリカでこんなにたくさん日本人の子どもがいる場所に行ったことがなかったので、ちょっと戸惑いました。

にほんごぶろぐにようこそ!

今日はブログ第一回目ということで、私と日本語教育との最初の出逢いについてお話ししたいと思います。